漫画の世界でこれからやっていくわけなんだけど

今年も「次に来るマンガ大賞」が発表され、私イチオシの「となりの軽音部」が無事Web漫画1位となった。

tsugimanga.jp

 

この漫画についてもいろいろと語りたいことはあるのではあるが、それは別の機会として、今回は、2024年次に来るマンガ大賞のエントリー資格があったものの惜しくも選考漏れとなった作品のうち、私がイチオシの作品を紹介したいと思う。趣味語りうぜーと思われるかもしれないが、現実に居場所のない全裸中年男性など漫画の世界くらいしか居場所がないのだ。私だって西方になって高木さんとイチャコラする青春時代を送りたかったのだ。ドラゴンボールを集めて今すぐかなえたいのだ、いやかなえなければならないのだ!!(誰もいない部屋で壁に向かって語りかけながら)

 

① ちがう宮原おまえじゃない!

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となりのヤングジャンプで連載中の、幼馴染とヒロインに板挟みになる少年を描いたラブコメ。原作者は「今日から始める幼なじみ」の帯屋ミドリ先生。ちなみにこの人は作画もできるため「原作+作画」「作画のみ」「原作のみ」の3形態で連載をしたことがあるという珍しい人。

 

中学1年生にしてはやや幼い感じのある幼馴染の宮原、主人公のあこがれのヒロインである雪比良さんを中心にして進むラブストーリーが非常に初々しくてうらやましくなる作品。ヒロインの雪比良さんも主人公をまんざらでもないと思っているみたいでどちらに転ぶのか、はたまたハーレムエンドなのか全く予想がつかないのも面白い。

 

と言うか前世でどれだけ徳を積めばこんな青春時代を送れるんですか僕の前世はどれだけ悪人だったんですかマニ車爆速で回してきていいですか。

 

② はっちぽっちぱんち

pocket.shonenmagazine.com

女子格闘技と言う今まであまり漫画として成功していないジャンルに、今年2つの新星が現れて一部界隈で話題になっていたりする。一つは次に来るマンガ大賞2024のWeb漫画9位に入賞した「一勝千金」、そしてもう一つがこの「はっちぽっちぱんち」である。この漫画「この人は殴っていいんだ」のネットミームで有名になっていたので、その一コマを見た人は多いのではないだろうか

 

双方ともフォーカスされるのが「主人公が内包する狂気」なのであるが、お互い狂気のベクトルが異なるのも面白い。本作は主人公の破壊衝動と言う動物的な狂気を原動力に格闘技の世界を突き進んでいく話。もともと柔道部で鍛えててある程度打たれ強いという素養があるものの打撃系格闘技未経験の主人公がムエタイやら空手やらの経験者とやりあうのは若干無理がある気もするが、そこを獣のような狂気でカバーして相手の心をへし折って決着をつけるというのも今までになかったパターンかもしれない

 

本作でも一勝千金でも「女子格闘技はノックアウトが少ないから人気がない」と言う分析がされており、それゆえに主人公が頭のねじが外れて手加減なしにぶん殴るおかしな人になっているのかもしれないが、そこからのストーリーの広げ方がお互いに異なるのもまた面白い。元テロリストで絶対的強者として君臨する一勝千金の主人公と、まだ素人でムエタイの選手にさっくり負ける程度だけど無限大の可能性を秘めたはっちぽっちぱんちの主人公。この2作はおそらくこれからも比較され続けるのだろうがお互いに研鑽しながら素晴らしい作品になってほしい

 

③ 深層のラプタ

shonenjumpplus.com

おそらくフォートナイトをモデルにしたFPSゲームに興ずる主人公の小学生の少年と、その少年にコンタクトしたAIとの間で繰り広げられる、自称「AI×少年のジュブナイルストーリー」

 

この作品はどう語ったらいいか非常に難しい。語った瞬間にそれがネタバレとなってその作品の魅力を損なってしまうように思えてしまうのだ。とにかく何も情報がない状態で、黙って1話目から読んでほしい。

 

一つだけ言えることは「絵柄と見出しのジュブナイルストーリーにはだまされるな」と言うことでしょうか

 

④ ガス灯野良犬探偵団

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かつて1990年代、「金田一少年の事件簿」や「名探偵コナン」で推理漫画が一世を風靡していたことは、私のようなおじさん世代には周知の事実だと思う。その後推理漫画はその敷居の高さから下火になったが(30年近くネタ切れしない青山先生は頭おかしいもとい本当にすごい人だと思う)、2024年、よりによって「シャーロックホームズもの」と言う推理ものの総本山に挑もうとしている漫画が爆誕してしまった。それがこの「ガス灯野良犬探偵団」である

 

まずこの作品、原作を「地雷グリコ」で山本周五郎賞を受賞し、直木賞候補にもなっている青崎勇吾が担っているというだけでも本気度が伝わると思う。既存の小説を漫画化するだけであれば伊坂幸太郎「魔王」とか宮島美奈の「成瀬は天下を取りに行く」とかないわけではないのだが、普通こんな売れっ子が漫画の原作を書き下ろすなんてめったにないのだ。そして作画は「リクドウ」で有名な松原利光である。この豪華キャストだけでもご飯3杯食べられる

 

ストーリーは靴磨き少年のリューイと、シャーロックホームズが出会い、ホームズがリューイの才能を認めて「犬」として雇うところから始まる。いわゆるベイカー街遊撃隊をモチーフにした作品であるが、靴磨きの経験をもとにホームズの推理を補完するリューイ、元マフィアメンバーで暴力担当のジエン、軽業師の少女で突撃隊長的なアビーと魅力的な子供たち、そしてホームズやワトソン、ハドソン夫人と言ったシリーズおなじみのメンツが繰り出すストーリーは本当に素晴らしい。自分はホームズもの未学習なので重要人物を調べながら読んでいるが全然ついていけているので、ホームズものを知っている人知らない人どちらにもお勧めできる作品だと思う

 

デベロッパーズ ~ゲーム創作沼へようこそ~

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Steamのようなゲームプラットフォームが一般化した昨今、ゲーム開発を個人または少人数のチームで行う、いわゆるインディーズゲームが話題になるようになってきているらしいが(自分はよくわからない)、それをテーマにした作品である。まぁサクナヒメやSlay the Spireもインディーズゲーム出身だし、昨今多いんだろうなぁと

 

この作品はとにかく業界をしっかり取材し、それを業界素人である我々にわかりやすく解説し、かつ漫画として魅力的であるという、マイナージャンルにありがちな独りよがりなストーリーになっていないところが非常に魅力的である。業界の構造や商習慣、そういったレベルの話まで踏み込んでいるのはやはり読んでいて知的欲求を満たされるので楽しい

 

ストーリーテリングはありきたりな内容だけど、バックグラウンドがしっかりしている作品は読んでいてとても楽しいので、これからも頑張ってほしいと思う

 

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以上、とりあえず5作品ほど上げてみた。ほかにも「おぼろとまち」とか「週末やらかし飯」とか「相席どうですか」とかおすすめはいっぱいあるのだが語りだしたら止まらなくなるのでここでやめておきたいと思う。とにかく今年は新作漫画が豊作なので、みなさん自分のお気に入りを発掘してみるがいいと思う

 

 

 

作家の顛末

たまにGoogleマップで昔住んでいたところの地図を眺めながら、当時の事を思い出す習慣がある。

 

例えば、大学時代住んでいたところはすでに20年以上経過しているので地図もかなり変わっていたりする。しかしところどころで見かける当時の傷跡のようなランドマークを眺めながら、そして当時存在しなかった施設なんかを眺めながら、昔の事、そしてもし今その街に自分が大学生として暮らしていたらどうなってただろうか、などを空想したりする。

 

思い出とは実にめんどくさいもので、大学時代アルバイトしていたピザ屋の周りを眺めていると、向かいにあったスーパーでよく買っていた弁当の味だとか、そこで知り合った仲間たちと大騒ぎしたこととか、その時好きになった女の子とのこととか、芋づる式で思い出してくる。大学のサークル棟付近を眺めていると、徹マンで素寒貧になったことばかり思い出す。これ以降私は自分の才覚を悟り、遊び以外でギャンブルをしなくなったのだが、これはまた別の話

 

ここまで遠くに来ると当時のことなど肌間隔でも思い出せない。どうせ今の自分が延長線上の存在なんだから365日中364日はくだらない、鬱々とした曇天の中で暮らしていたんだと思う。でもたとえ1日でもワンピースの船出に使われそうな晴天の日があるのなら、今よりはましだったのかもしれない。

 

あの頃は何があったのか。若さゆえに何も知らず、一人暮らしとインターネット黎明期の重なりからいろいろ交友関係が広がり、毎日目にする情報がただただ新鮮でそれだけが楽しかったのではないだろうか。そう、未開拓の分野を経済学ではブルーオーシャンなどと呼ぶが、文字通り青々とした大海が、当時の私の目の前には広がっていたのかもしれない。それだけでも今より優れているのだ

 

翻って今の自分はどうだろうか。目の前によどんだ、救いのない海原しか見えない今、未来があったことのすばらしさを改めて思い出したりもする。しかし未来とは若者の特権であり、すでに全裸中年男性と化した私には届かないものである。シータの飛行石を見て「わしにはまぶしすぎるからその石をしまってくれ」と言ったじーさんのように、手の届かなくなったキラキラに対して、ただただ恐れることしかできなくなったのが、今の自分ではないだろうか

 

来世なんて都合のいい世界観があるなら、きっとそれに期待すべきなのであろう。しかし前世の記憶すら持ち合わせていない程度に徳の低い自分は、仮に来世みたいなものがあったとしてもリセットボタンを押したかのようにきれいさっぱり真っ白になって、そして同じことを繰り返し、全裸中年男性となり、若造であった昔を懐かしみ、帰りたくなるのだ。

 

家内には蔑まれ、仕事ではいいようにこき使われ、愛犬はなつきすらしてくれない。これが現実なのだ。そしてこの現実を日本人の平均寿命である80歳まで続けることに意味があるのかと思うと、来世ガチャでも引いて楽になりたくなる。

 

おそらくは前述の通り同じ轍を踏むだけであろうが、それでも一分でも今よりましになる可能性があるのであれば

母のやさしい面影を 追いかけて歌う故郷の子守歌

ろくな思い出もなく大学に行くまでの踏み台程度にしか考えていなかった母校が甲子園に出場し、1回戦を突破するだけでなぜここまで高揚するのだろうか。人間は歳をとると昔を懐かしがり、自分の青春時代を美化するものだとどこかで聞いたことがあるが、全裸中年男性を自称する程度の年齢である私もついにその域に達したのであろうか。

 

そもそもなぜ人は自分の過去を美化するのであろうか。まずあらかじめ言っておくが、昔が今より優れていたという事実はどこにもない。少なくとも私が学生時代は男子は丸刈りがデフォであり、校則違反しようものならぶん殴られた上に先生愛用のバリカンで虎刈りの丸刈りにされていたものである。そもそも私の父は校則違反する奴らの頭を丸めすぎてそこらの床屋より丸刈りの腕が上だなんて豪語していた時代である。人権意識など焚火囲んでウホウホ言っている蛮族と大差なく、令和の今の世でそんなことしようものならクビは飛ぶわ住所はTwitterにさらされるわひろゆきごときにバカにされるわでえらいことになってしまう。あの時代はあの時代で、ピッコロ大魔王を封印していた電子ジャーの中に突っ込んで二度と日の目を見せてはいけない時代なのである。

 

つまり現実的に帰った方がヤバい世界に対して、我々は郷愁感を抱くのである。なぜか。推測であるが、要因の一つは「すでにそこには帰れない」ことである。私が母校に行っても高校生には戻れないし仮にセーラー服を着て母校を闊歩しようものなら静岡県警にマジモンゲットだぜと言われながらお縄になるのがオチであるし、そもそも私は学生時代セーラー服を着た記憶がないと言いたいところだが大学時代セーラームーンの格好をして謎の杖を振りかざしながらマラソン大会に出たことがあるので余計ややこしくなる。そうではなくて仮に私が1990年代の高校生に戻りたいと願ってもそこには届かないということだ。私は高校時代の、プレイボーイのヌードグラビアをおかずにできた若人の頃とは違うのである。もはやXVIDEOSがなければ満足できない体となってしまったのであり何の話をしているのだ。

 

とにかく、月は届かないからきれいに見えるなんて言葉がある通り、人間は失ってしまった過去の自分と言うものをえらく美化し、そこにノスタルジーみたいなものを感じ、言葉では言い表せないあこがれを抱くのであろう。

 

そしてもう一つの要因は「過去の再発掘」ではないだろうか。例えば、旧来の友達と昔話をしているときに「そういえばお前、あの時○○だったよなー」とほじくり返されるアレである。私の場合はそうやって発掘される過去がろくでもないものばかりでありそのたびに穴を掘って隠れたくなるものであるからそろそろ平安京エイリアンに特別ゲストとして出演したいものである。無理ならディグダグでもいいです。

 

まぁ発掘される話題が何であれ、我々はそういった過去の再発掘を通して忘れていた自分の過去を再発掘し、そのたびに自分の過去を都合よく改ざんしていくのである。そう、我々の過去の記憶は何とか映えしている美女レベルにフォトショ加工され、いいとこばかり強調されているのかもしれない。

 

つまりこうやって安酒片手に駄文を連ねる今ですら、何十年後には美化された思い出となるのであろう。そう、全裸中年男性であっても、たぬき横丁で俺のちんぽも風に揺られてフラフラだぜと豪語しながら振動数が視認できない程度のちんぽをさらして神奈川県警に追い回された過去も、いつかは美しい思い出となるのだ。

 

そうして時が流れ、年老いた全裸中年男性は今わの際、「ちんぽくん、あの時君に現世を見せたのは本当によかったと思うよ。君も世界を知ることができて幸せだっただろう?」とつぶやきながら、再度萎びた陰茎をさらしだすのである。しかしそこには誰もおらず、神奈川県警のパトカーのサイレンの幻聴を聴きながら、全裸中年男性はその短い一生を閉じるのである。

 

つまり私にとって高校野球の思い出など男根バットマーチを熱唱しながら股間のバットをフルスイングする程度のものでありずいぶん歴史が捏造されている。この調子で捏造をつづけて、実は石油王の御曹司だったという妄想につかりながら、世界が終わるまで現実逃避を続けたいものである。

今宵 星のかけらを探しに行こう

「むむ、このままではジリ貧だ、仕方あるまい、かくなる上はワシがちんぽを出すしかない!」
「そんな、艦長自らちんぽを出すなんて!!」
「無謀です!ここは私にちんぽを出させてください!!」
「みんな、ありがとう…。しかしここは、老兵のワシが、未来ある若者のためにちんぽを出さなければならないんじゃ!!」


からはじまる大宇宙冒険活劇を空想してみたが、全裸中年男性の梅干しサイズの脳みそではどうにもこうにも露店の拭き戻しほどの展開もできないまま袋小路に追い詰められてしまい、建設的な展望を見出すことができなかった。このように我々が認知する世界には、思いついた当初は世界を制した気分になれるものの、開始数分で間柴のフリッカージャブで追い詰められ一歩のデンプシーロールで世界の壁の厚さを思い知らされるような事象が山のように転がっているものだ。

 

思えば人間なんていい加減なもので、大学時代、我が友K君は、「俺は絶対オリコン一位になれる歌を思いついた、俺は天才だ」と豪語してその一小節を鼻歌で私に効かせたりしていた。当時彼の中でマイブームだった河村隆一っぽいメロディーであるその歌を聴きながら、私は学食のチキンカレーとポークカレーとビーフカレー、どれが味とコストのバランス的に最強であるかを思案していた。まぁその後彼が音楽業界にデビューしてオリコンチャートにランクインしたなんて話を聴かないので、彼はその数小節から展開できていなかったのであろう。最初の煌めく数ピースを見つけても、そこから残りのピースを拾い上げて一枚のジグソーパズルを作り出すことは、我々のような凡人にはひどく困難なことなのである

 

まぁ別にふんづまるのがブログや自作曲であれば諦めがつくが、日銭を稼ぐ業務であるとたちが悪い。私のようなうんこちんちんがジグソーパズルの作りかけをいっぱい作って放り投げていたらたちどころにクビになり、日々の寝食にも窮する憐れな中年男性は松屋でお代の代わりに陰茎をさらけ出し、刑務所の臭い飯を食らって命をつなぐ事態になってしまうのだ。松屋は食券制だから入店直後に飯も食わずいきなり陰茎をさらけ出さないとこの事象は成立しない、なんて言ってはならない。

 

と言うことで我々はちんぽの代わりに石井のミートボールサイズの脳みそを駆使して残りのパーツを探し出し、みすぼらしくても一枚絵を完成させなければいけないのである。これが自分自身の事であればこうやって死に物狂いでちんぽの露出と人並みの生活を天秤にかけながら物事の解決に邁進するのだが、こと他人事であるときはいい加減になるものである。何のことはない、絵が完成しなければ他人が全裸中年男性になればいいだけなのであるから。

 

そう言ったいい加減な認識から、上司の思い込みだったり客の思い付きだったりするものが錦の御旗のように世界を横行し、末端である我々は呪詛の念と血反吐を吐きながら終電まで働き続けるのである。そもそも全ての要求のミトコンドリア・イブは「よろしくやっといて」なのである。それ以上の具体化をする気がないのであれば、曖昧模糊であり五里霧中であり朝令暮改である要求に人々は苦しみ、救済を求め、全裸中年男性になってしまうのだ。

 

しかしゆめゆめ油断してはならない。このような人でなしの行為を繰り返すことによりEXILEのメンバーのごとく全裸中年男性は増えていき、いつしか全裸のおじさんがマジョリティとなってしまうのだ。これが由々しき事態でなければなんと呼ぼうか。

 

想像してごらん、みんなが全裸中年男性である世界を。

教わらなかった夢とともに 少年は大人になった

Twitterで流れてきた「創作って中二の時うまく作れなかったものを実現するんじゃないの」というツイートに、はたと手が止まった

http:// https://x.com/msbt987/status/1815219650143420919?t=oBX1_sDVCu55t2H8V3f7xw&s=19

 

全裸中年男性となって幾星霜、創作しているものなどうんこと不具合と前科しかないような人生である私にも、生物学的に14歳であった日々があったはずである。かつて14歳であった自分は、いったい何に夢中になっていたのであろうか

 

1992年、14歳であった私は、地方のひなびた中学に通い、生来の運動音痴をいかんなく発揮してテニス部で全敗の道を邁進し、ジャンプとボキャブラ天国を愛し、そして北杜夫の熱烈な信者であった

 

北杜夫の著書、特にどくとるマンボウシリーズで知られるそのエッセイ集は、大真面目な硬い文章に支離滅裂で大ぼら吹きな内容を合わせることで、北杜夫にしか出せない独特な雰囲気を作りだしており、おそらくはのちの椎名誠に代表される昭和軽薄体の作家人に多大な影響を与えていると思われる。要はものすごい作家さんである

 

まだ世間知らずで無知な自分は、北杜夫のどくとるマンボウシリーズを片っ端から読みふけってその精神世界に浸っていた(一応「幽霊」や「夜と霧の隅で」と言った純文学も読んだが、頭の足りない私にはその世界観が理解ができなかった)。特に好んで読んだのが「どくとるマンボウ航海記」や「マンボウ周遊券」と言った旅行記もので、まだ海外旅行が商店街の福引の景品にすらならないレアアイテムであった当時、梅干しと納豆のスメルしかしない実家で海外の風を感じることができた数少ない手段であった

 

例えばスエズ運河を突っ切ったとき、両岸の住民から目薬などをせがまれたエピソードから、当時の途上国の貧しさを知ることができ、またヨーロッパ旅行に行ったとき、ナチスの歌はシンガーから拒否られたのに日本の軍歌は遠慮なく陽陽と歌われたことから、当時のヨーロッパ諸国におけるナチスの立ち位置を理解したりと、私は北杜夫のエッセイを通して海外を覗いていたともいえる

 

そしてまた私は、北杜夫が綴る誇大妄想な戯言に深く心酔していた。かつて男の子であった人間であればドイツで買った護身用のガスピストルは太平洋に住む謎の海坊主に引き継がれ、悪党どもを懲らしめていくのに使われているだろうという北杜夫が語った物語にあこがれを抱くはずだ。間違えても北杜夫のガスピストルは入国時の税関が没収し、その辺の埋め立て地に廃棄されていてはならないのだ

 

こういった文学との接点を与えてくれた親には感謝しかないわけだが、14歳の時に北杜夫に影響を受けた男子は、その後文学的才能を何一つ開花することもなく、前述の通りうんこと不具合と全裸と前科を重ねるだけの人生となってしまっている。もはや私と北杜夫の接点を語るなどおこがましいにもほどがあり、偉大なるエッセイストと大便しか出せない全裸中年男性ほどの差があるのである

 

そう、こうやってこんな真夜中に駄文を綴っている時間があるのだが、これは北杜夫云々はまるで関係なく、本当に「たまたま」なのである。そう、全裸中年男性だけに、「たまたま」

(ここで下着を脱ぎ睾丸と陰茎をあらわにする)

(徐々に近づいてくるサイレンと赤色灯)

(23時44分、身柄確保!と言う怒声)

(そして僕は途方に暮れる)

君と夏の終わり 将来もダメ 大きな絶望 忘れたい

夏と言う単語からは、いろいろなものが連想される。スイカ、花火、かき氷、プールと言ったありきたりなもの、ひと夏の思い出と言ったラブロマンス的なものから、「夏と花火と私の死体」なんて物騒な単語を思い出す人もいるかもしれない。けれど私の中で夏と言ったら「高校野球」なのである

 

念のため言うが私は野球部に所属したことは一回もないし、なんならバッティングセンターで一番遅い球を堂々と空振りするレベルの運動音痴である。私の高校野球の思い出はすべて父親から来ているものになる

 

私の一家は教員一家であり、私の父もその例にもれず高校で理科の教員をしていた。父は我々の親の世代がそうであるように量産型仕事人間であり、学生時代の登山や昆虫採集と言った趣味を封印して仕事に邁進していた。しかしそんな父が唯一楽しみにしていたのが「高校野球」である。

 

父の高校野球ウォッチのスタートは、朝日新聞のおまけでついてくる、バカでかい県大会のトーナメント表を手に入れるところから始まる。と言っても我が家は朝日新聞を購読していたのでその敷居は高くなく、父はポスターほどの大きさのトーナメント表を大事にしまうと、県大会の結果をTVや新聞で毎日チェックし、どこが勝ち進んだのかをトーナメント表に記していく。そして決勝が終わると、完成したトーナメント表を満足げに眺めて、父の高校野球ウォッチは終わるのだ(我が地元静岡は甲子園に弱く、所詮出場しても1回戦か2回戦で消えることを父はよく知っていたのだ)。

 

父の高校野球好きは年を追うごとに加速していき、インターネットのない時代に独自の教員ネットワークを駆使して、あの高校にはいい投手が入ったとか、あの高校は監督が変わったから弱くなるとか、そんなことを何も知らない私によく語っていた。もちろん真偽など当時の私には知る由もなく、父と言う高校野球うんちく工場で流れるベルトコンベアを、はえーすごいなー親父は物知りだなーと言う気持ちで眺めていたのである。しかしこの独自ネットワークも、案外バカにできないものだったのだ。

 

私が中学生くらいの頃(今ググったら1991年の話なので、私が中1の頃の話である)、当時無名であった市立沼津に播磨と言う投手がいて、その投手が文字通り無双して県大会を勝ち抜いてしまったのである。静岡県大会と言っても当時100校くらいある高校の頂点であるので運やまぐれで勝ち抜けるものでもない。新聞でも播磨は静岡県随一の好投手として評価されていた

 

しかし父はどこで仕入れた情報なのか「播磨のスライダーは県大会レベルでは誰も打てないけど、他は並レベルだ。甲子園では厳しいだろうしプロは無理だろう」と評価しており、実際甲子園では早々に敗退し、播磨はドラフトに指名されることなく大学野球→社会人野球と進み、その野球人生を終わらせた。父の目利きがばっちり当たった例であると言える。

 

それから何十年もたって、静岡の高校も統廃合が進み、当時強豪校であった浜松商は落ちぶれて加藤学園常葉菊川のような新興私立が台頭し、もう私の知識では今の静岡県大会で誰が勝ち抜くのかは全く予想がつかない。でも父は、毎年朝日新聞のおまけでついてくるトーナメント表を楽しみに待ち、そこにスコアを記して一喜一憂しているのである。コロナ真っ只中の2021年に、俺はワクチンを打ったから大丈夫だと豪語して毎日野球の応援に行ってた人間であるから、その場にいなくてもそうしている風景が目に浮かぶ。

 

そんな記憶をたどりながら、自分も毎年地元の高校野球の結果をチェックしてしまう。どうせ今住んでいる神奈川は横浜高校東海大相模くらいしか強豪校は知らないし、なんの思い入れもないからチェックする気も起らない。仮に自分に子供がいたとしても私は神奈川の事情を何も知らないから子供に高校野球のすばらしさをひとかけらも教えられないであろう。そういった意味ではこの分野には父には逆立ちしたって勝てる気がしない。

 

子は父の背中を超えていくものであるが、こういった何したって超えられない分野があるのはかなり悔しいものである。これは落合福嗣落合博満に対して抱いている感情に近いのかもしれない。知らんけど。

 

ともかく、何も知らなかった私に、高校野球のトーナメント表を見せながら、この高校は今年は強いとか、ここは春にうまくいかなくてノーシードだけど絶対勝ちあがるとか、そんなことを楽しそうに語っていた父の面影を、夏の夜にふと思い出しながら、こんな駄文を綴ってみたりする。そんな日々が戻ってくることは二度とないことを認識しながら。

ゼンラニンゲンは犯罪だ

全裸中年男性と言うネットミームがある。

 

曰く、戸塚や松戸等の郊外の安アパートに住み、氷河期の厳冬の真っただ中、バブル期ではもらえたであろう職にもつけず、派遣や日雇いで糊口をしのぎ、己が身を恥じ自ら孤独となり、友は去り、親は逝き、いつしか社会との隔絶の中で衣服を着ることすら忘れ、粗末な陰茎をさらけ出して松屋で安飯を食い散らかす。

 

そんな存在である。

 

そのもの悲しさ漂う姿を想像するたび、私の心の中には、何故か、「元祖天才バカボンの春」が流れる。

youtu.be

 

ご存じの通りバカボンのパパはコミカルヒーローであり、悲哀や憂愁と言った負の感情からは180°反対側にいる人間である。小学生がメインターゲットのギャグアニメのエンディングテーマになぜこのような哀愁漂うムード歌謡を据えたのか、私にはとんと想像がつかない。

しかし、強烈な光ほど闇深い影を作り出すように、平和で幸福そうなバカボン一家にも何か人知れない苦悩があるのかもしれない。この主題歌はその闇の部分を照らし出したエレジーなのであろうか。

 

そして、全裸中年男性もこういった意味では同じである。傍から見ればみすぼらしい、いうなれば負け犬が全裸になって途方に暮れている、ただのマヌケなだけの存在である。王様だって全裸で闊歩すれば子供に笑われる。文字通り何も持たない全裸中年男性が衆目にどのような嘲笑を浴びるか、想像に難くない。

しかし我々は忘れてはいけない。彼らは、失われたn十年(nは1以上の自然数)の被害者であることを。彼が滑稽に映れば映るほど、彼が社会から虐げられている闇の部分が色濃くあぶりだされることを

 

そして我々は時々、その厚顔無恥で愚かで、金も地位も名誉もない、ただただ空虚な時間が流れているだけの存在に、えも言われぬあこがれを抱くことがあるのではないだろうか。かつて桜井和寿が、ロックスターの頂点に駆け上がった後、シーラカンスと言う異形の存在と、深海と言う異世界を切望したように、我々は我々が理解できぬ異質な存在にある種のあこがれを抱き続ける生き物なのだ。

 

つまり我々は全裸である存在に畏敬の念を抱き、いつしかその存在に近づこうとしているのかもしれない。

 

そう、次に全裸中年男性になり千葉県警や神奈川県警に追い回されるのは、あなた自身なのかもしれないのだ。